牧場紹介

管理体制

すべての搾乳牛の首にトランスポンダという機械をつけています。
歩数などのアクティビティや、乳量、発情管理など牛の様々な情報をパソコンで管理できるようになっています。

ミルキングパーラー

搾乳を行う場所をミルキングパーラーといいます。
首につけたトランスポンダの情報を読み取り、パソコンに乳量などのデータが送られます。
作業負担の少ない設計で人にも牛にも優しく搾乳を行うことができます。

哺乳牛舎

子牛を産むことによって、牛は搾乳できるようになります。 生まれた子牛を育てるのが哺乳牛舎です。
市の瀨牧場では人工授精により、和牛とホルスタインの交雑種(F1種といいます)とホルスタイン種、2種類の子牛を生産しています。
子牛管理も、哺乳ロボットによる機械管理で行っています。

搾乳牛舎

搾乳牛が暮らしている場所です。
牛が快適に過ごすことができるよう1日3回掃除をし、清潔な環境を整えています。




沿革

 市の瀨牧場のある朝霧地域の酪農家のほとんどは、長野県阿南町の二・三男対策としての戦後開拓でこの地に入植したことから始まります。
開拓当初は、荒れ地のため作物も採れず、生活することすら大変なところでしたが、牧草なら育つということで開拓の人々は酪農を始めるようになり、県内でも有数の酪農地帯になりました。

当社は、昭和27年に社長の両親が開拓1世として入植し、牛1頭から飼い始め、昭和52年、社長が23歳の時に15頭の牧場を受け継ぎました。
社長の結婚後、苦しいながらも生活を安定させるため、夫婦で努力をして少しずつ規模拡大をしていましたが、平成3年、牛舎火災により牛舎は全焼、牛5頭を残して全てを焼失しました。
そこから社長夫婦は「負けるもんか!」「人生において、乗り越えられない試練は与えられない!」という想いの元、寝る間も惜しんで仕事に励み、平成17年4月 有限会社 市の瀨牧場を立ち上げ、250頭規模の牧場にしました。
それからも数回の餌代・燃料代高騰、生産調整(牛乳が余るため、牛乳を減らす=酪農家が牛を淘汰する、という政策)など、数々の苦難を乗り越え、現在の400頭規模の牧場になりました。
数々の困難を乗り越え、現在の市の瀨牧場があります。

市の瀨牧場の歴史
昭和27年 社長両親 朝霧高原に入植 1頭
昭和52年 4月 社長 後継者として引き継ぐ。 15頭
昭和53年 手作り牛舎、手作業での餌づくりなど工夫を凝らして、規模拡大 30頭
昭和54年 生産調整(牛乳が余るため、生産量を減らすという政策)により、牛を10頭淘汰せざるを得ない状況になる。 20頭
昭和58年 社長結婚 32頭
平成2年 夫婦で協力して頑張り、規模を徐々に拡大していく。 40頭
平成3年 10月 牛舎火災により、牛5頭を残し、すべて焼失する。 5頭
平成3年 10月 牛舎火災により、牛5頭を残し、すべて焼失する。 5頭
「負けるもんか!」「人生において、乗り越えられない試練は与えられない!」という想いの元、寝る間も惜しんで仕事に励む。 100頭
平成4年 12月 2度目の生産調整に合い、牛を淘汰する。
3度目の生産調整に合い、牛を淘汰する。
平成17年 4月 有限会社 市の瀨牧場を立ち上げる。 250頭
平成19年 餌代・燃料高騰により、経営が圧迫される。
平成26年 従業員数13人とともに牧場を営んでいる 400頭
inserted by FC2 system